日本人が大事にすべきこと

〜新渡戸稲造と内村鑑三に学ぶ〜

山本 基


1.はじめに

2.武士道と代表的日本人

3.義の人〜西郷隆盛〜

4.勇の人〜日蓮上人〜

5.仁の人〜上杉鷹山〜

6.礼の人〜中江藤樹〜

7.誠の人〜二宮尊徳〜

8.おわりに


 


1.はじめに

日本の社会に、効率や数字だけでものを言う風潮が強まっている。例えば、河川や道路などの社会資本整備では、費用対効果の考え方が重視され、B/Cにより直轄国道事業の一時凍結が決められるなどしている。また、企業では成果主義の考え方が重視され、数字を上げている社員は良い報酬を得て、数字が上がらない社員はリストラの対象となるなどしている。

相手を思いやるとか、社会や会社全体で支え合うとか、長期的視点でものを考えることなどが軽視され、個々のその時々の結果が重要されるようになってきたのは、特に1990年代以降であると考えられる。この背景には、日本国内ではバブル崩壊による経済不況が続き、国や地方公共団体の財政が厳しくなるとともに、企業経営は国際競争にさらされて不断の合理化を迫られるなど、ゆとりをなくしている事情があるものと考えられる。

こうした国内事情の一方で、外的な要因により日本の社会が影響を受けている側面もあると考えられる。冷戦が終わった直後の1990年に、アメリカの国務長官は「冷戦中の戦勝国は日本だった。冷戦後も戦勝国にさせてはならない」と語り、その後、アメリカでは日本をひきずり下ろすための戦略プロジェクトが進行したと言われている。たしかに日本で市場原理、グローバリズム、規制緩和、構造改革、リストラなどが叫ばれ、効率や数字を重視するようになったのは1990年代以降であり、これ以降、日本は混迷の時代を迎えている。アメリカの思惑どおりの結果となっているのかも知れない。

効率や数字は物事を判断する上で一つの要素であると考えられるが、これだけにあまりに頼りすぎると、日本の社会全体が窮屈になる。また、効率や数字で簡単に割り切らないことにより、知恵や工夫を凝らして社会を発展させてきたのが日本だったのではないのかと思う。今は、日本人がこれまで大事にしてきたことに気付き、そこから日本を発展させるための考え方を学ぶことが重要であると考えられる。

本稿では、明治後期に著わされた新渡戸稲造「武士道」と内村鑑三「代表的日本人」に基づき、日本人に備わっているはずの道徳観を学び、日本人が大事にすべきことについて考える。

 

2.武士道と代表的日本人

新渡戸稲造(1862〜1933)と内村鑑三(1861〜1930)は、ともに札幌農学校で学び、いずれもキリスト者となり、アメリカに留学した。その後、新渡戸稲造は一高校長、東京帝大教授、国際連盟事務局次長などとして活躍し、内村鑑三は一高を不敬事件で追われた後,評論活動を行いながら無教会主義のキリスト者として生涯を尽くした。両者の歩んだ道は異なるものの、いずれも日本のために生きた人物であったと私は考える。

新渡戸稲造の「武士道」(Bushido, the soul of Japan)は明治32年(1899)に、また内村鑑三の「代表的日本人」(Representative Man of Japan)は明治41年(1908)にそれぞれ英文で書かれた。ただし、「代表的日本人」は、14年前の明治27年(1894)に刊行された「日本及び日本人」(Japan and the Japanese)の中から思想論を除き、人物論だけをとりあげたものである。

 時代は日清戦争や日露戦争前後の明治後期であり、まだ日本という国がよく知られていない状況下で、いずれの書も日本人の道徳を世界に知らせた名著と言われているが、私は西洋文明を日本が安易に受入れていることに警鐘を鳴らすとともに、西洋の考え方が押し寄せる中で日本人はいかに生きるべきかを日本人に示した書であるとも考えている。効率や数字を重視するアメリカ的な考え方が日本を席巻する今日、改めて両書に基づき、日本人はどう生きるべきかを考えることは意味のあることであると考える。

 新渡戸稲造「武士道」によると、武士道は封建時代に武士階級の掟として始まったが、時を経るにしたがって武士だけでなく日本人全体の道徳的原理になってきた。その道徳的原理は、義、勇、仁、礼、誠などで示されている。

 一方、内村鑑三「代表的日本人」には5人の偉大な日本人が登場する。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人である。

 私は新渡戸稲造から学んだ道徳的原理の5つの要素と内村鑑三が示した5人の代表的日本人を関連づけたいと思う。5人の代表的日本人には、道徳的原理の5つの要素がすべて備わっていると考えられるが、人それぞれに5つの要素に強弱がある。私は、内村鑑三が示した5人の偉大な日本人が、新渡戸稲造が示した道徳的原理の5つの要素をそれぞれ代表していると考える。 

以下では、義、勇、仁、礼、誠という道徳的原理とは何かを、5人の偉大な日本人の行動を通じて紹介する。

 

3.義の人〜西郷隆盛〜

義とは人としての正しい道である。武士にとっては、卑劣な行動、曲がった振る舞いほど忌むべきものはなかった。新渡戸稲造が日本人の道徳的原理の第一に義を置いたのは、義が人の最も高く賞賛したところであったからである。打算も損得もなく、正義の考え方に基づいて行動した人として、西郷隆盛をあげる。

西郷隆盛は、大久保利通、木戸孝允とともに明治維新を成し遂げた明治の三元勲の一人と言われている。この中で革命を始動させる原動力の役割を果たしたのは西郷隆盛であり、内村鑑三が言うとおりに「西郷なくして革命は不可能だった」と私は考える。

明治維新後、日本はいわゆる文明開化の時代を迎え、優柔不断な考え方、明らかな正義をも犠牲にして恥じない風潮が世に蔓延した。この時、西郷はこう言う。「文明とは正義のひろく行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない。」西郷は時の政府に対して強い不満を抱いていた。西郷にとっては正義ほど天下に大事なものはなかった。

西郷は、西南戦争で政府に刃向かい、謀反人の汚名を着せられたが、今日でも日本人の心に西郷隆盛が残っているのは私利私欲がなく、義に生きた人だからであると私は思う。西郷は言う。「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。」

西郷の生き方は「敬天愛人」という言葉に表われている。人を相手にするのではなく、天を相手にする。天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さねばならない。なんと大きな人なのだろう、なんと澄み切った人なのだろうと私は思う。

 

4.勇の人〜日蓮上人〜

勇とは、正しいことをする勇ましい心のことである。論語では「義を見てせざるは勇なきなり」と説いているが、新渡戸稲造は、勇は義のために行われなければ、徳行とは考えられないと記している。死に値しないことのために死ぬことは「犬死」として賤しめられたのである。義に接して、決してひるまず勇気を持って行動した人として、日蓮上人があげられる。内村鑑三は、日蓮について「20世紀の人々は、この人物から教えはともかく、その信仰とその勇気を学ぶがよろしい」と述べている。

日蓮上人は、安房の国に世を忍ぶ身の漁師の子として生まれた。16歳で僧侶となり、蓮長を名乗った。蓮長にとっての課題は、仏教に無数の宗派が存在する問題であった。仏教とは一つではないのか、いずれの宗派が従うべき仏陀の道なのか。祈り続けた蓮長を、仏陀の言葉「依法不依人」、つまり真理の教えを信じ人に頼るなという言葉が捉えた。蓮長は故郷を離れ、鎌倉に5年、比叡山に10年学び、あらゆる他の経典に比べて法華経が優れていることを確信した。

蓮長は日蓮と改め、「立正安国論」を著わした。その中で、その頃国土を災難が襲ったのは人々の間に誤った教えが広められているからであると述べ、救済の道は法華経を国民あげて信奉することであると主張した。他宗に対する宣戦布告であった。日蓮はひとり世に抗し続け、やがて人々から注目されるようになった。鎌倉幕府は日蓮の影響を心配して弾圧し、伊豆、佐渡へ流罪とした。しかし、日蓮の不屈の勇気と忍耐は、流刑地においても改宗者をつくった。日蓮の外冦の予言が当たり、実際に蒙古襲来があったこともあり、鎌倉幕府は日蓮に対して恐怖と尊敬を抱き、十数年の後、日蓮は鎌倉に帰ることが許された。

臨終の時、日蓮は人々が運んできた仏像を取り払うように合図した。このため、法華経の名の入った掛け物を前に飾ると、日蓮はそれに向かって手を合わせ、最後の息を引き取った。これについて、内村鑑三は「日蓮は経典崇拝者でありましたが、偶像崇拝者ではなかったのであります」と記している。キリスト教において無教会主義を主張した内村鑑三が自分自身を日蓮と重ね合わせていたと私は思う。

 

5.仁の人〜上杉鷹山〜

 仁とは、人への慈悲の気持ちである。人の上に立つための必要条件は、他者への慈悲、憐れみである。新渡戸稲造は、弱者、劣者、敗者に対する仁は武士では特に賞賛されたと記している。人にへの慈悲の気持ちを持って行動した人として、上杉鷹山があげられる。

 上杉鷹山は、17歳で九州・高鍋藩秋月家から米沢藩上杉家の世継ぎになった。上杉家はかつては100万石以上の所領を持っていた名門の家柄であるが、関ヶ原の戦いで反徳川方に回ったため30万石に減封され、その後さらに15万石に減らされた。上杉鷹山に課せられた課題は、藩全体からかき集めても5両のお金すら捻出することができない藩財政を立て直すことであった。

 上杉鷹山はまず自分の倹約を始める。支出を1050両から209両に8割カットした。女中の数を減らし、着物は木綿に限り、食事は一汁一菜とした。その上、家来には自分以下の程度の倹約を命じた。

倹約を行う一方で、能力のある人材を登用した。まず「郷村頭取」という行政一般を担う総監督を置き、上杉鷹山は郷村頭取に対して「役人は、民には母のように接しなければならない。民をいつくしむ心さえ汝にあるならば、才能の不足を心配する必要はない」と言う。また、「教導出役」という巡回説教師には「地蔵の慈悲を持ち、心には不動の正義を忘れるな」と、さらに警察の役目を担う「廻村横目」には「閻魔の正義、義憤を示し、心には地蔵の慈悲を失うな」と述べている。

これら3つの役目はうまく機能し、民を統制することができた。上杉鷹山は自らが率先垂範した上で、天から自らに託された民を「人の道」に導こうとした。産業振興の成果も実り、かつては全藩で5両も揃えることができなかった米沢藩は上杉鷹山の晩年には一声で1万両を集めることができるようになったと言われている。

上杉鷹山は人を思いやり、民を大事にした人であった。このため、民からも慕われた。このことは上杉鷹山が70年の生涯を終えたときの様子からよく分かる。内村鑑三は以下のように締めくくっている。「民は、自分の祖父母を失ったかのように泣いた。階層を問わず悲しみ、その様は筆に尽くしがたい。葬儀の日には、何万人もの会葬者が路にあふれた。合掌し、頭を垂れ、深く悲しむ声がだれからも漏れた。山川草木もこぞってこれに和した。」

6.礼の人〜中江藤樹〜

 礼とは、礼儀正しく生きることである。新渡戸稲造は、礼儀は他者を思いやる気持ちから発せられるものであり、泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶことが尊ばれると記している。礼儀正しく生きた人として、中江藤樹があげられる。

 中江藤樹は、近江に生まれ、伊予の国大洲の祖父母のもとで育てられた。大洲で孔子を学んだ藤樹であったが、祖父母が亡くなり、父も失い、母を気遣って、将来学者として約束された名誉と高禄を捨て去って、22歳で近江に戻った。

 近江に戻った藤樹は、行商人に変じて酒を売り歩き、刀を売って手に入れた金を人に貸すなどしてつつましい生活を送った。28歳になった時、藤樹は行商人をやめて、村に学校を開き、村人に「人の道」を教えた。藤樹はその人の徳と人格を非常に重んじ、学問と知識を著しく軽んじたと言う。「学者とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない」という言葉は藤樹の考え方を象徴している。

 藤樹は村の先生としてつつましく生きることを望んでいたが、そのことを天は許さなかった。後に著名な儒者となる若き日の熊沢蕃山が、藤樹を表舞台に引っ張り出したのである。聖人を求めて旅をしていた蕃山は、ある時、近江の宿で二人の旅人が次のような話をしているのを聞いた。

「主君の命で首府に上り、数百両の金を持ち帰る途中、この村で、雇った馬の鞍に財布を結びつけたまま、馬子と一緒に馬を返してしまった。しばらくして大変な忘れ物をしたことに気付いたが、馬子の名は知らず、たとえ捜し出せたとしても金はもうないかも知れない。弁解の余地はない、最期を迎える決意を固めた。ところが、真夜中になって宿を叩く者があった。馬子が金を届けてくれたのだった。私は馬子に命の恩人なので、礼の金を受け取るように言ったが、馬子は財布はあなたのものですので受け取れませんと言って、わらじ代だけいただきますという。どうしてそれほど無欲で正直で誠実なのかと聞くと、馬子は私のところの小川村に中江藤樹という人がいて、そういうことを教えてくださっているのです。先生は、利益を上げることだけが人生の目的ではない。正直で、正しい道、人の道に従うことが大事だとおっしゃいますという。」

こういう話を聞いて、次の日、熊沢蕃山は中江藤樹のもとに行き、弟子にしていただきたいとお願いした。藤樹は断ったが、3日3晩玄関前で座り続けた蕃山の姿に藤樹の母が心動かされ、仲介役を果たした。中江藤樹のことは熊沢蕃山を通じて備前岡山藩の藩主に伝わり、藩主自らが近江の中江藤樹の家を訪れることになり、藤樹の名声は世に知られるようになったのである。

 藤樹は真の聖賢について次のように述べている。「谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない。」

 内村鑑三は、300年前に生きた人がなぜこれほど尊敬を受けるかについて村人に尋ねたら、こう答えるだろうと言っている。この村辺りでは、父は子にやさしく、子は父に孝養をつくし、兄弟は仲良くし、家では怒声は聞かれず、誰もが穏やかな顔つきをしているが、これはすべて藤樹先生の教えと後世に遺された感化の賜物であると。「現代の私どもは、「感化」を他に及ぼそうとして、太鼓を叩き、ラッパを鳴らし、新聞広告を用いるなど大騒ぎをしますが、真の感化とはなんであるか、この人物に学ぶがよろしいでしょう。」という内村の言葉は、今日にも十分に通じるものである。

 

7.誠の人〜二宮尊徳〜

 誠とは、正直で、うそがないということである。嘘をつくこと、ごまかしをすることは卑怯と見なされた。新渡戸稲造は、武士が約束をする時には、一般に証文にはよらず、口約束で履行されたことを例示している。「武士に二言はない」という言葉のように、言行一致が当然であった。誠実に生きた人として、二宮尊徳があげられる。

二宮尊徳は、相模の国のごく貧しい農夫の子として生まれ、父の死後、16歳で伯父に預けられた。尊徳は一日の仕事を終えた後、深夜に孔子の勉強をしたが、伯父にとがめられたため、勉強は干し草や薪を山に取りに行く往復の道でなされた。

尊徳は、洪水で沼地になった所から水を汲み上げて田んぼにして、余った苗をもらってきて植え、怠らずに世話をした。秋には2俵もの米が実った。尊徳は、自然が正直者の味方であることを知った。自然はその法に従う者には豊かに報いるということを学んだ。

数年後、伯父の元から独立した尊徳は、何年もたたないうちにかなりの資産を持つようになり、模範的な倹約家、勤勉家と言われるようになった。その名声は小田原藩主にまで届き、藩主は下野にある荒廃地の復興を尊徳に依頼した。その土地は以前は4千俵の年貢を納めていたが、今では800俵にとどまっていた。当初藩主の依頼を断っていた尊徳であるが、断り切れないと分かると、数ヶ月間、荒廃地に村人と共に過ごし、一軒一軒訪ねて生活振りを注意深く観察した。藩主に提出した尊徳の報告は、「仁術さえ施せば、この貧しい人々に豊かな暮らしを取り戻すことができます」というものであった。金銭を下付したり、税を免除する方法ではこの困窮を救えない、金銭的援助を断ち切り、自力で立ち直らせることが大事である、誠心誠意、忍耐強く仕事に励むなら、10年後には昔の繁栄を回復できるのではないかというのである。計画が受け入れられ、尊徳は村の指導者になった。約束の10年を終えると、貧しかった地方が貯え豊かな地域になり、4千俵の収穫だけでなく、飢饉に備えて倉庫をいくつも所有するほどの村になった。尊徳は、「永遠の成長発展の法にしたがって、休むことさえしなければ、貧困は求めても訪れない」との信念を抱いていた。そのことを村で実践したのであった。

尊徳は、部下の評価にあたって、動機の誠実さで判断した。尊徳からみて最良の働き者は最も多く仕事をする者ではなく、最も高い動機で働く者であった。村で働く者の中に、「根っこ掘り」といって終始切り株を取り除く仕事をしている年寄りがいた。この作業は骨の折れる仕事で、見栄えもしなかった。しかし、尊徳の目にはこの年寄りが輝いて見えた。賃金を支払う際に、尊徳はこの年寄りに破格の15両もの賃金を支払った。年寄りがこんなにたくさんのお金をもらう値打ちがありませんと言うのに対して、尊徳は「おまえは誰もしたがらない仕事をしたのである。人目を気にせず、村人のためになることだけを考えてしたのだ。おまえのような誠実な人間を知って、私はとても嬉しい」と語った。誠実に生きれば報われることを教えている。

 

8.おわりに

 数年前に「勝ち組、負け組」などという日本には相応しくない言葉がはやり、お金さえあれば何でも手に入れることができると豪語した事業家が一世を風靡した。しかし、こうした流れに対して、日本人は何かおかしいと感じていたのだと思う。その後に刊行された藤原正彦「国家の品格」が新渡戸稲造の武士道の大切さを説いてベストセラーになったのをみると、今日の日本人にも昔からの道徳観が受け継がれているものと考えられる。

 私は新渡戸稲造が言う義、勇、仁、礼、誠の道徳観や、内村鑑三が取り上げている5人の代表的日本人の話は、今日の日本人にも理解され、共感されると考える。

・自分の行いに義はあるのか。

・義を通す勇気があるのか。

・慈悲の心を持って人と接しているか。

・礼儀をわきまえているか。

・誠実に生きているか。

 こうしたことを一人ひとりが常々意識し、行動することにより、日本の家庭、地域、国家はより良い方向に向かうと考える。このため、家庭や学校、地域、会社など社会のさまざまな場面で、日本人がこれまで大事にしてきた道徳観を伝えていくことが重要であると考えている。